2024年5月号感想

幸せの黄色いリボン

刃の上を歩くくらいきつい個人主義。今月の感想です。

はい帰ってきましたよ我らがパンシザおかえりなさいそしておめでとう!正直4年も待ってるとか正気の沙汰じゃないし迷惑そうだしそろそろやめようかと思ってましたよ。いやよかった。

しかも8月に単行本とか、今月から20ページほどが確定してるような気がします。まあ予定だしとりあえずもう掲載だけでありがたいレベルですよもう。

さて王冠戦前、ケルビムの覚悟と戦争責任という重い話がきます。主張としては戦争という大きな犯罪の中にある個別の犯罪を裁くべきだってものですね。

これはしんどい。

ブラックホーク・ダウンってあるじゃないですか。あれの原作本を昔読んだんですけどさ、主人公が殺人について問われて、「その罪は国家が背負うべき罪であり、自分は道具として動いただけだ」という主張をしてるんですね。

似たようなところではヘルシングの旦那が同じ主張をしてます。

銃は私が構えよう
照準も私が定めよう
弾を弾倉に入れ
遊底を引き
安全装置も私が外そう
だが
殺すのはおまえの殺意だ

『HELLSING』3巻より

これはとっくに覚悟決まってる旦那が上司にわざわざ腹をくくれって意味で言ってるわけですが、それでも兵隊は道具であって責任は上にある、そういう考え方でもあります。

日航機墜落事故でも、ボーイング社は最後まで飛行機の修理をした社員を誰か明かしませんでした。責任は社にあり個人にはないという考え方だそうで。

欧米だけじゃなく卑近で、わたしは剣道の師匠から責任という話を叩き込まれました。物理で

昭和の時代の剣道ですから、そりゃまあ体罰ありありマシマシなわけですよ。で、わたしも一応子どもの指導とかするわけです。先輩ですから。その時に師匠から言われるわけです。

「いいか、後輩の間違いはお前の責任と思え。お前がヘボい教え方をしたから後輩が間違えたんだ。後輩に体罰をしたらお前も自分を殴れ。俺も自分を叩く」

まあ自分で自分を叩くと手加減が入るんで、体罰するごとにうさぎ跳びで体育館一周なわけですが。

なんていうか。例を上げすぎましたけど。

責任を誰が取るかという話ひとつとっても、組織もしくは上司が取るという考え方がけっこう世の中にはびこってるなあと。そうじゃないとやってられないですもんね。

パンシザはそんな優しさないんですね。

どこまでも責任は個人にあるという考え方です。灰色の放棄を許さない。

もちろん、責任をすべて個人に負わせるわけでなく、上に立つものだからこそ責任を取るという姿勢をケルビムは見せています。

上は責任を取るけど、実行者もちゃんと責任を負わせる。パンシザはあくまでも個人にも組織にも責任を取らせるという姿勢なわけです。

これは少尉も演説でさんざん言ってた話で、よく再開後1回目でこの話を持ってきたなあというか、だからこそ最初休載はさんだんかなと思います。その時点ではさすがにここまで長引くとか思ってなさそうですが。

これは刃物の上を素足で渡るような考え方だとわたしは思います。いつか血が流れる。その危うさは少尉で描写されてるわけですが、ケルビムもけっこうまずいところまで行ってますね。

ケルビムは裁きを記者とその読者にゆだねました。

ただし、今はやめてほしいと。

電信は…
その先にある
情報形態は…
あまりにも強力です

使い方次第で
個人も集団も
時に国家さえも
攻撃対象とすることができる
……!

その圧倒的な威力に
呑まれてしまう人間は
決して
少なくないでしょう

月刊少年マガジン5月号『Pumpkin scissors』より

見た感じ、みんなの今月の感想はここに集約してるみたいですね。ツイッター、今はXですか。わたしはめんどくさいのでツイッターと呼ばれてたSNSとかで済ませてますけど。

よりにもよってXかよ、とかマルコー中尉あたりが悶絶してそうです。イーロン・マスクと感性が同じだね。

まあ集団による『叩き』はツイッターどころかインターネット黎明期の2chでも名物だったわけですが、あそこはやってるほうも自分の露悪趣味に自覚があったというか、一応持ち出し禁止というか、あそこをスタンダードにしたら終わりみたいな雰囲気はありました。

これがツイッターとなると別です。あそこは板なし全員強制コテハンの無法地帯。なのにニュースで「今日のツイッターの話題」とか出ます。つらい。

陰口じゃなくなっちゃったんですよね。もうある種の「世間の意見」になっちゃってる。正直個人的にはツイッターやってるやつなんて人類の1%も行くかどうかだと思ってますが、それでも人数が多いと錯誤されてしまっています。

そして叩きやいじめは面白い。残念ながら自分が正義と自覚しながら悪を叩くことほど面白いことなんて世の中そうはありません。だからこそ時代劇は流行りました。

時代劇やら虚構ならいいんですが、自分がその一員と勘違いしたまま他人を叩けるようになりました。

そんなこと言ってるわたしだって、基本的に見てるだけで止めもしなけりゃ参加もしないと言うある意味最悪な立ち位置にいます。

作中ではミュゼさんが言ってますね。

実際にどんな人間か知らなくても
「凶悪な人間」と断ずることができる
義憤を燃やし 怒り 憎むことができる

それが世間というものでしょう?

それともあなたが見ている世間では――
民衆が常に正しい情報を選択し…
常に正しい反応を示しているのかしら

『Pumpkin Scissors』 16巻

わたしなんて自分のことすら全部知らないのに他人のことにどうこう言えるわけないですね。まあここで好き勝手言ってますが。

犯罪者への理解というなら夏目漱石だったかの、「犯罪者がすべての感情を吐露することができてかつ理解されるなら彼は裁かれることはないだろう」みたいな意見もあります。

総じてこれまでの取りまとめみたいな回になっています。

しかし、裁きという点で思うのは、「裁かれて許されて、それですっきりしていいの?」みたいな言葉です。昔わたしはカス上司に言われました。

「お前はすぐに謝るけれど自分がすっきりしたいだけだ」

このカスは親を殴ってるというガチのカスですが、自分を嫌ってるヤツの言葉というのは腹が立つけど正鵠を射ています。周りが遠慮して言わない本音だから役に立つというか。

さて来月はどうなりますか。

あと、カラーのラインベルカ二課長が美人でびっくり。そういや妹ものすごい美人でしたもんね。これが単行本の表紙でしょうか。

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