嗚呼消え失せたクリスピーチキン

ネットではから揚げについて熱っぽく語られる。

そんな中私は、ケンタのクリスピーチキンを偏愛していた。

ケンタッキーの問題点はいくつかあるが、部位を選べないと言うことと、食べる時やたら汚れることだ。

普通のチキンを食べる時、まずどの部位か見る。そして肉がついてそうなところを指で確かめ、かぶりついていく。

その間、基本的に骨についた肉をいかにこそげとるか、そしてどこまで骨にかじりついていいのかという問題を考えている。

スイカやメロンを食べる時、皮のどの辺りまで攻めるかと言うあのケチ臭い感覚と同じだ。

「ここに肉はついてるが、果たしてこれをこそぎ落としていいもんなんだろうか?みんなここまでたべてるのだろうか?」

人と食べてる時なんて、骨に残る肉の少なさで己の貧乏くささに気づかれそうな思いをする。

クリスピーチキンと骨無しチキンは、そう言う面倒から私を解放してくれた。

何も考えることはない。ただ噛んで、味わって、飲み込めばいいのだ。自分の実家のカルピスの薄さ濃さとか、ファーストフードに連れてってもらえなかったとか、親父の偏食が優先された結果煮魚と焼き魚ばっか食べさせられる羽目になったとかそういう恨み言話だ。

特にクリスピーチキンが好きだ。あの噛むとバリっとする衣。かすかなニンニクの匂いがして、中の肉はジューシーで艶めいてるほどだ。

天ぷらなら衣が多いとムカつくが、クリスピーチキンなら衣倍増でもいい。

そんなクリスピーチキンだが、量が少ない。

ほぼケンタッキーチキン一個とクリスピーチキン一個が同じ扱いである。ガッツリ食いたければオリジナルチキンを食え、とカーネルおじさんは仰せらしい。

クリスピーチキンセットというのがあった。2本セットだった。だったってのはなくなったからだ。

そりゃクリスピー2本じゃ足りないだろ。あれは少食の民のものじゃなかろうか。

そして私はいつもクリスピーチキンセットを頼みつつ(少ないなぁ…)と思っていた。

いつかクリスピーチキンを飽食したいもんだ、とおもいつつ月日を過ごしていた。

そしたらだ。

クリスピーチキンが改定されていた。

クリスピーチキンなのに、クリスピーじゃなくなった。あの衣のバリバリがない。ツイスターとかに巻くのに邪魔と思われたか。

私はカリカリしなくなったクリスピーチキンを食べて思った。

食べたい時に食べといた方が、人生は後悔せずに済む。早くケンタッキー食べ放題行くべきだった。

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